くちずさむのに、いい歌というのがあると思います。煩雑なごたごたした日常から、その歌を口遊むおかげで、しばらくは気分をよくしてもらえる歌。
　草柳繁一さんの歌集『胡麻よ　ひらけ』の中にも、勿論くちずさむのにいい歌が、いくつかあってこの歌もその一つ。

• 東京は晴れ札幌は俄か雨水戸高曇り春のひと日や

　草柳さん、三十代の歌。ラジオから流れるアナウンサーの天気予報の声。草柳さんが三十代という日本の社会は、どんなだったかなと私は思いをめぐらす。
　草柳さん三十代は、敗戦後の復興期の東京。おそらく東京の一隅、大崎に住んでいたころ。あのころの日本家屋の茶の間。アナウンサーの天気予報の声を、聞くともなしに小耳にはさんで、外へ出かけるところか。
　東京、札幌、水戸と、都市の名を三つとりあげて、それに付き合わせたことばが、晴れ、俄か雨、高曇りと畳み掛けてゆくスピード感が、気持ちいい。
　五七五七七の定型を踏んで、声に出して読みあげると調子のいいリズムがあって、読んでしまう歌。
　「高曇り」。これアナウンサーのことばだろうか。タカグモリ。晴れ、俄か雨、そして高曇りと続いて妙味。私には、このタカグモリが、一首のなかで利いていると思う。ここまで弾んだリズムは、「春のひと日や」と、やわらかく括ったテクニック。天地の春を俯瞰している構図。
　読んで肩の凝らない歌。諳んじていい気分になれる歌ではありますが、実は緻密な技が、うちに働いていると思う。
　短歌をつくり、読んだりする幸せは、このような短歌に出会うことです。以前から好きでいたこの歌を、再びくちずさみながら、最近の草柳さんの様子をあれこれ思います。どうしていらっしゃるかしら。

　実は、原昌子さんの歌集『鬣』出版を祝う会に、草柳繁一さんが姿をお見せにならなかったのは、とてもかなしかった。みんながっかり。事情は、理解していたのですが、それでも寂しかったのです。「はな」の会員は、当然ですが「はな」以外の人々からも「はな」の出版会だから「はな」を見守っておいでの草柳さんは、きっといらっしゃるでしょうね、「はな」の会に出席すれば、草柳さんにお目に掛かれると思っていた人々もいたのですよ。
　でも草柳さんの奥様から「角宮さん、あなただけは理解、承知しておいて下さいね」と、言われていた事情があったのです。それは草柳さんの皮膚のことです。とりわけ手にできている湿疹のことです。「おくすりを塗って、夜、繃帯を巻いてあげても、痒くて夜中に?き毟ってしまうの。それでまた悪くしてしまうの」と奥様が、おっしゃいました。体は痛いのもつらいけれど、痒いのもさぞつらいでしょう。草柳さんがいま苦しんでいる手を思い『胡麻よ　ひらけ』を開くと皮膚につながる短歌が、七首あるのに気付きました。

• からだより皮膚干乾びて剥がれゆく思ひ湧く時われ立ち歩く
• からだより剥がれ落ちたる淋しさを掃き集め裏の溝に捨てゆく
• いちめんに小水泡の吹きいでしわがてのひらはいかにかもせん
• てのひらの皮膚剥ぎとればＳＰＯＯＮや鳥の骨などがはひつてゐた
• 指さきのささくれだちてゐることの虚しさむしろこころ凪ぐなり
• 恐ろしきまでに寂しくなりゐたりてのひらの皮をわが剥きながら
• 蹠（あなうら）の皮を剥きつつわが独り砕けて物をおもふ頃かな

　この七首は、昭和二十年（一九四五）以降、昭和五十年（一九七五）までの短歌。青年時代から草柳さんは皮膚が弱くてこういう短歌をつくっておられたのだと考えこんでいると、突然、草柳さんから手紙がきました。何事かしらとあけてみると最近の作として「おできの歌」八首が書かれてあり、びっくり。これはごく最近のおできの短歌。

　おできの歌　　八首
• しどけなく手の平の皮剥いてゐる皮は剥いても又生えてくる
• 体中（からだじゅう）御出来だらけに我なりて生きてゐるのが嫌になるなあ
• 大腸癌二度手術せしあたりより身体（からだ）の先つちよに腫物（はれもの）が出来る
• 手や足の指のまた耳の辺りなど身体（からだ）の先つちよに腫物（はれもの）が出来る
• 格別に痛くも痒（かゆ）くもなけれども汚（きたな）らしくて気が滅入（めい）るなり
• 米寿まで生くるとはよも思はざりき蒲柳（ほりゆう）の質の少年の我
• 戦車操縦し乾（いぬい）門より宮城に這入りてゆきし事ありにけり
• 此の儘（まんま）死んでしまひたいといふ昔の流行歌（はやりうた）ふと口遊む
  ＊「アカシアの雨に打たれて此の儘死んでしまいたい」と云うウタの一節